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——多幾宏平[マーケティングリアルティ]

入居者体験の向上でPM業務を削減
「手厚いサービス」より「手間をなくす」

【第12回】マーケティング視点の不動産投資講座

入居体験の向上はコスト増ではない

テナント及び入居者へ向けた「体験価値の向上」といわれると、多くの人が「高級ホテルのような手厚いおもてなし」をイメージします。しかし、現代において求められる体験価値の向上とは、人手やコストをかけたものだけではありません。入居者の生活の中に存在する「手間がかかる」、「分かりにくい」、「待ち時間が長い」といったストレスを削減していくことも重要な「体験価値の向上」になります。

 

アメリカで普及している「TenX(テナント・エクスペリエンス)」という概念は、入居者の手間やストレスを極限まで下げることで体験価値を向上するものです。またそれと同時に、PM担当者の業務コストを削減するイノベーションとしても注目されています。今回はこの「TenX」を紹介します。

「ストレス低減」が持つ大きな価値

本題に入る前に行動経済学の第一人者であり、ノーベル経済学賞を受賞したダニエル・カーネマンが提唱した人間の脳の判断メカニズムの「認知の容易性(Cognitive Ease)」という概念を紹介します。

 

認知の容易性とは、脳が情報を処理する際に「余計な負荷がかからず、スムーズに理解・行動できる状態」を指します。人間は、物事がシンプルで迷いがなく、頭を使わずに実行できる状態にあるとき、無意識のうちに「快適だ」「この対象は信頼できる」というポジティブな感情を抱きます。反対に、手続きが複雑である、説明が分かりにくい、どう行動していいか迷うといった「認知的負荷」がかかると、脳は即座にストレスを感じ、不満や警戒心を強めます。

 

現代において、デジタル技術を活用し、顧客に一切の頭を使わせない「認知の容易性(フリクションレス:摩擦ゼロ)」の構築に各社が力を注いでいます。有名な事例はAmazonの「1-Click注文」や、タクシー配車アプリの「乗車・即決済」が良い例です。これらは顧客に手厚い接客(人手)を提供しているのではなく、手間をできるだけ排除することで、快適な体験を提供しています。

米国「TenX」の本質は、
管理オペレーションの「超・省力化」

本題に戻りますが、この概念を不動産賃貸事業に置き換えてみましょう。入居者が日常で感じるストレスの正体は何でしょうか。

 

「ゴミ出しの日が分からない」「設備の使い方が分からず分厚い紙のマニュアルを探す」「問合せの電話が繋がらない」「返信を何日も待たされる」――。

 

これらはすべて、入居者の脳に無用な「認知的負荷」を与える摩擦です。そして、これらの摩擦が発生した瞬間、管理現場では何が起きているでしょうか。「ゴミ出し間違いのクレーム対応」や「使い方に関する電話説明」、「折り返し電話の手間」、「問い合わせ履歴の確認」という、膨大な手作業、人件費、担当者の精神的なストレスが発生しているのです。

 

現在、アメリカの賃貸市場では、「TenX」の推進で入居者体験の最適化が急速に進んでいます。

 

例えば、専用のスマートフォンアプリを活用し、入居手続き、鍵の解錠、家賃決済、共用部の予約、修繕依頼などをすべてデジタル上で完結させるなど、一見すると「入居者のための最新ITサービス」に見えます。しかし、事業者がTenXを強力に推進している最大の理由は、「管理現場のオペレーションコストを劇的に削減できるから」です。

 

入居者がアプリ上でセルフで解決できるように設計することで、従来の管理事務所に集中していた電話対応や紙の処理、対面でのやり取りといった「現場の手間」が数十分の一に削減されました。TenXの本質とは、「手厚いサービスを増やしてコストをかけること」ではなく、「入居者のストレスをゼロにすることで、現場の人件費と無駄な問い合わせを根本から削ぎ落とす構造改革」なのです。

 

さらに、一度この「手間がかからない生活」に慣れた入居者は、わざわざ退去して旧態依然とした面倒な物件に移ろうとはしません。賃貸経営はサブスクリプションモデルです。ストレスを消し去るアプローチは、現場の手間を減らすと同時に、解約率を劇的に下げ、長期にわたる安定収益をもたらす「コスト削減&収益化戦略」となります。

 

従来の管理とTenX推進時のイメージ

人手をかけずに体験を上げ、
コストを下げる実践アプローチ

「高価なシステムを導入する余裕はない」という現場でも、テナント管理のアプローチの仕方を工夫するだけで、明日から「手間を減らして体験を上げる」施策を実行できます。

 

◎紙の案内から「直感的に理解できるデジタルFAQ」へ
入居時に渡す分厚い紙の「入居者のしおり」を廃止し、ゴミの出し方やエアコン・給湯器のトラブル対処法をショート動画や写真でまとめたWebページ(QRコード化)へ集約します。入居者はスマホで一瞬で疑問を解決でき、管理会社には「ゴミの分別方法」「使い方が分からない」という初歩的な電話が一切かかってこなくなります。

 

◎コール対応から「非同期(チャット)コミュニケーション」へ
「電話窓口は平日10時~17時」という制約は、昼間働く入居者にとっても、電話対応に追われるスタッフにとっても大きなストレスです。LINE公式アカウント等のチャットツールへ移行することで、入居者は24時間いつでも思い立った時に連絡でき、スタッフは手が空いた時間にまとめて処理できます。「電話に出られない」「折り返しがかかってこない」という双方の無駄なやり取り(摩擦)が即座に解消されます。

 

◎「注意書きの張り紙」から「物理的デザインによる未然防止」へ 
エントランスに「騒音注意」「ゴミの分別徹底」と何枚も張り紙をするのは、見た目が悪いだけでなく、効果が薄いため何度もクレーム対応をする羽目になります。例えば、ゴミ置き場の分別容器の投入口の形を変える(缶・瓶・ペットボトルで穴の形を変える)など、直感的に間違えようのないハード・ソフトの工夫を一度作るだけで、その後の管理業務の手間が劇的に下がります。

「現状維持」こそがコストが高く、
さらに上昇していく

このように体験価値の向上とは、決して現場に無理をさせて人手を増やしたり、際限なくコストをかけたりすることではありません。「手間が増えるから現状維持が良い」と考え、分かりにくくストレスの多い管理を放っておくことこそが、膨らみ続ける人件費と、入居者の不満による退去というリスクを抱え続けることになります。

 

より手厚いサービスを提供すること、人的なフォローを増やすこと以外でもユーザーの体験価値を向上すると同時に、PM担当者の業務コストを削減するイノベーションがあるのです。


本連載「マーケティング視点の不動産投資講座」
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