――多幾宏平[マーケティングリアルティ]
【第9回】マーケティング視点の不動産投資講座
不動産事業は、土地価格、建設単価、金利の上昇という「三重苦」に直面しています。多くの現場で事業収支を成立させるため、真っ先に行われるのが「仕様のダウンサイジング」で、これには企画デザイン料の圧縮も含まれます。
しかし、マーケティングの観点では、これは投資効率を著しく低下させる行為です。
不動産の総事業費において、商品企画や意匠設計に係るコストは、多くの場合全体のわずか数%に過ぎません。
しかし、この数%の企画及びデザインがレバレッジの支点となり、竣工後の賃料プレミアムや売却価格で数十%もの差を生み出す「最大の変数」かつ、不動産という巨大な資本投下で最も効率的にリターンを増幅させる投資先なのです。コストとリターンばかり優先した個性のない「一般的な白い箱」の開発は、一見投資効率が高く見えますが、リターンは限定的です。
なぜ、わずか数%のデザイン投資が、賃料という客観的な数字を数十%も変動させる力を持つのでしょうか。
その鍵は、人間の脳が空間を評価する際の認知バイアスにあります。心理学において、ある対象を評価する際、目立った一つの特徴に引きずられ全体の評価が歪む現象を 「ハロー効果(後光効果)」 と呼びます。
不動産企画においてこの効果を最も発揮するのが、エントランスやラウンジ、専有部の「光の重心」です。
例えば物件に足を踏み入れた瞬間に、プロの手による計算し尽くされた陰影や本物の素材が持つ触覚的な質感に包まれたなら、脳内はポジティブな連鎖が瞬時に構築されます。一度この「後光」が差せば、強い一部が全体評価を肯定的に変化させることができます。
にもかかわらず、多くの住宅は「白クロスに平凡な設備」というオーソドックスなデザインをする要因のひとつに、入居者側の 「決断疲れ」 があります。日本の賃貸住宅の多くは、入居者が入居後に照明や家具を購入し、加工することを前提とした未完成な状態で提供されます。
しかし、照明や内装材の選定は極めて専門性の高い領域で、一般的な入居者にとって選定は難易度が高いです。プロが最初から「これこそが正解である」という完成された空間を提供することは、入居者を「失敗のリスク」から解放するホスピタリティといえます。
プロが選んだ心地よさをはじめから提供する。様々な角度で専門家たちによって計算されたデザインは、高コスト時代にプレミアム賃料を正当化するための「小さな」投資であり、最も効率的にリターンを増幅させる投資先です。
デザインが、いかに材料原価を上げずに主観的価値を跳ね上げるか。IKEAの象徴的な製品から、ロジックを読み解いてみたいと思います。
同社は、徹底的なコストカットを行う一方で、その根幹には「優れたデザインこそが低コストを実現する」という、一見矛盾するような経営哲学をもつことで知られています。
同社においてデザイン費が製品原価に占める割合は極めて微々たるものですが、その「知恵」が売上や利益率、そしてブランド価値に与える変動幅は、他のどの変数よりも大きいのです。
①アームチェア「ポエング(POÄNG)」
40年以上に渡り、世界で3,000万個以上(2016年時点)売れる名作。
複雑なバネ構造を一切使わず、積層合板の「しなり」だけで高いレベルの座り心地を実現しています。
高価な部材に頼るのではなく、意匠設計の工夫(カンチレバー構造)によって、「低コストな素材」にも関わらず「高付加価値な体験」「特徴あるユニークなデザイン」を両立させています。
これは不動産において、高価な石材を並べるのではなく、照明の角度や視線の抜けを作る設計によって、空間の質を劇的に高める手法と同じです。
②サイドテーブル「ラック(LACK)」
極限までシンプルにデザインされたこのテーブル。
内部に紙の芯材(ハニカム構造)を用いることで、驚異的な低価格と軽量化を両立しています。
プロの手によって「削ぎ落とされたミニマリズム」として完結しているため、どんな空間にも馴染むよう設計されています。ユーザーにアレンジの負担をかけず、最初から「これがあれば空間が整う」という完成度を提示しています。
一方でデザイン性に手間をかけ過ぎたものにも注意が必要です。時代の変化を捉えることは重要ですが、トレンドを追うだけのデザインは、投資におけるボラティリティを高めるだけです。数年で陳腐化するデザインは、将来の減価要因になりかねません。
かけすぎたデザイン性と対極にあるのが、京都の建築物のような、数百年にわたって「心地よい」とされ続ける普遍的な空間です。
これには1975年に地理学者のジェイ・アップルトンが提唱した、「人間が本能的に心地よいと感じる空間の法則(プロスペクト・リフュージ理論)」 が組み込まれています。
一言で言えば、「敵に襲われない安全な場所に身を隠しながら(隠れ家)、周囲の状況を広く見渡せる(眺望)環境」を好むという生存本能です。この理論が発表される数百年前から、京都の町家は人間が心地よいとされる奥深い静寂(隠れ家)と、坪庭への視線の抜け(眺望)を両立させています。
入居者が「あとから手を加える必要を感じない」ほどの完成度と、長期的な資産価値を支える安定資産とするにはどうすれば良いかという視点を実現した、究極系といえるでしょう。
総事業開発費のほんの数%に過ぎない企画デザイン費が、なぜ賃料を数十%も変動させる力を持つのか。
それは、不動産が「物理的なハード」であると同時に、人間の「心理的な体験」そのものだからです。
一見「白い箱」「白いクロスであったとしても、プロとしての審美眼で磨き抜かれた「一つの正解」を空間として提示されているものには数十%のプレミアムがつく。時代に左右されない普遍的な心地よさを、最初から責任を持ってデザインし切る。
今後、不動産開発に「物理学」と「心理学」が融合されていき、このレバレッジを使いこなすことが、高コスト時代の重要な戦略の一つになって
くるはずです。
本連載「マーケティング視点の不動産投資講座」
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