――武田 至[一般社団法人火葬研 代表理事・会長]
【新連載】東京の火葬場立地とその成り立ち
「東京」(古くは「とうけい」とも)の名は、1868(明治元・慶応4)年7月に出された「江戸の名を東京に改める」という詔により、江戸の町奉行支配地域(墨引)を管轄する東京府が設置されたことにはじまる。京都は依然として「京」であるが、これからは新たに江戸も「京」とするという意味で、京(京都)に対して東に位置するので「東京」である。
現在、東京都は23区と三多摩地域に大きく分けられる。本連載では、東京の火葬場の立地と成り立ちを時代とともに述べるが、ここでは東京都は現在の東京と全体を指すのではなく、当時の東京市または現在の23区の区域を示すものとし、三多摩地区と分けて掲載する。
第1回は江戸時代における東京の火葬場である。
江戸時代になると、寺請制度という幕藩体制下での仏教の国教的な扱いとともに、さらなる火葬の普及がみられる。
寺請制度とは、江戸幕府が民衆統制、宗教統制に利用した戸籍制度である。寺僧がその檀家家族個々について、キリシタンや禁制宗派たる日蓮宗不受不施派などの信徒でないことを証明する寺請を行なうことによって、身元や身分を証明したものである。
江戸時代から明治にかけての東京における火葬場の沿革を、東京都公文書館所蔵の「火葬一件」(明治8・9年東京府寺社掛)を中心に見てみる。
江戸初期の火葬場は、深川、浅草、市ヶ谷、四ツ谷、芝、三田に位置した。江戸の整備発展により、砂村、小塚原、上落合、代々木、今里、桐ケ谷と周辺の村々に移設されるようになるが、寺院との結び付きは強く、火葬場はまだ寺院の境内の一角にあったり、火葬寺と称し専用の施設として扱われたりしていた。
「火葬一件」でのやりとりから幕末における江戸の火葬場は、以下の7か所と寺院内の荼毘所であったと思われる(図表1)。
(1)小塚原火葬寺群
(2)深川霊巌寺
(3)砂村新田極楽寺
(4)芝増上寺今里村下屋敷
(5)代々木村狼谷
(6)上落合村法界寺
(7)桐ケ谷村霊源寺
いずれも古くは都心に近い位置にあったものが、江戸の拡張に伴って周辺部に移転したものと考えられる。
(続きは本誌で)