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――多幾宏平[マーケティングリアルティ]

値引き販促は「劇薬」
リーシング戦略の致命的な混同

【第5回】マーケティング視点の不動産投資講座

値引きで誘致した入居者は
なぜ定着しないのか

 空室期間が長引くことは、不動産オーナーにとってもPM担当者にとっても耐え難いストレスでしょう。「フリーレント○か月」「敷金礼金ゼロ」「キャッシュバック」――。これらのキャンペーンを打てば、確かに反響が増加し、空室は埋まるかもしれません。しかし、明確な戦略なき値引き販促は不動産経営における「劇薬」です。それは長期的にみると資産価値という体力を確実に蝕みます。
 
 心理学者マーク・レッパー氏らは、絵を描くことが好きな子供たちを対象にした有名な実験を行いました。その内容は、子供たちを「絵を描いたらご褒美をあげる」と約束したグループとそうでないグループに分けて観察したというものです。前者のグループは、ご褒美がなくなった途端に絵を描くことへの興味を急速に失いました。これは外発的動機づけ(ご褒美)が与えられると、本来持っていたはずの内発的動機づけ(絵を描くことへの興味)が阻害され、脳が「私は報酬のためにこの行動を選んだ」と認識を書き換えてしまう現象で、「アンダーマイニング効果(過正当化効果)」と呼ばれます。
 
 これを不動産経営に当てはめるとどうなるでしょうか。強力なキャンペーンで引っ張ってきた入居者は、無意識のうちにこの物件の決め手が「魅力的な価格」であったと認識します。周辺環境やデザインといった物件本来の価値への関心は薄れ、契約更新時にキャンペーン(報酬)がなければ居み続ける理由は消失します。
 また人々には「安いものは品質が悪い」と直感的に判断する傾向があります。安売りされた物件の入居者には、無意識に物件を「低品質なもの」として扱い、乱雑な使用やマナー低下を招くリスクがあります。

一度下げた賃料を戻すことのハードル

 オーナーやPM担当者のなかには「最初は安く入れて、後で相場に戻せばいい」「入居者も相場を理解してくれるはず」という考えるケースがあるかと思いますが、心理学の知見を用いればそれが困難であると分かります。
 
 人間は利得の喜びよりも損失の痛みを2倍から2.5倍強く感じるとされます。心理学者ダニエル・カーネマン氏とエイモス・トベルスキー氏は、こうした損失回避志向を「プロスペクト理論」として提唱しました。
 入居者にとって、入居時のキャンペーン価格は強力な参照価格として心に刻まれます。オーナー側が「キャンペーン終了に伴う正規賃料への復帰」と主張しても、入居者はそれを「正常化」ではなく「値上げ(損失)」と捉えます。
 
 不動産業界では[図表]で示す2つの戦略の混同がよく見られます。早く満室にして売却する「短期売却(Exit)型」の戦略であれば、値引きやADは見積もられたコストであり有効です。しかし、中長期保有で将来的な賃料増額や資産価値向上を狙う「長期保有(Value Up)型」の戦略を目指す場合、一度値引きしてしまうと本来の価値に見合った賃料に戻すのは高難度です。

 長期保有型戦略を目指しているにもかかわらず、退去が出るたびに場当たり的なキャンペーンを繰り返す物件は、入居者の質低下に陥っています。不動産を取得する際、現在のレントロールだけでなく「どのようにリースアップされたかの履歴」を確認ないし契約書から想像するのはこのためです。短期売却型の手法で無理やり満室にした物件は、数字上の稼働率や賃料は高くても、それを維持・向上するのが困難でしょう。逆に特段の戦略もなく稼働している物件はアンダバリューしている場合が多く、戦略の再
設計で本来の価値を取り戻せるチャンスがあります。

クレーマーか、パートナーか

 キャンペーン主導(短期売却型戦略)のもとで集めた入居者とオーナーの間で結ばれるのは「取引的契約」といえます。入居者にとって物件は単なる「消費対象」であり、設備の不具合や入居者間のトラブルは即座に攻撃的なクレームへと転化します。
 
 対して、世界観や体験価値(長期保有型戦略)を打ち出して集めた入居者とオーナーの間に成立するのは「関係的契約」といえます。「このブランドの世界観に惹かれた」「このコミュニティの一員である」という帰属意識が働き、高い賃料が単なるコストではなく自身のステータスや所属を示すシグナルとして機能します。 特筆すべきは、入居者が物件を「消費」するのではなく、良質なコミュニティを維持しようとする「パートナー(共同生産者)」になり得る点です。マナーを守り、建設的なフィードバックをもたらし、良質な口コミで同質の入居者を呼び込みます。

マーケティング視点による
「マッチング」への回帰

 不動産価値を長期的に維持・向上させる第一歩は、「誰が我々の顧客(ユーザー)なのか」という問いに立ち返ることです。賃料を上げる(あるいは適正価格を維持する)唯一の方法は、高い賃料を払ってでもその場所に住みたいと願う属性のニーズを深く洞察し、彼らが欲しがる「価値」を追加することです。
 
 心理学者ダリル・ベム氏の「自己知覚理論」によれば、人は自分の行動を見て、自分の内面を推論するようです。「一番安いからここを選んだ」という行動は、「私は安さを追求する人間だ」という自己認識を強化します。逆に「少し高くても、このコンセプトに共感して選んだ」という行動は、「私はこのライフスタイルを大切にする人間だ」という強いアイデンティティとロイヤルティを醸成します。
 
 キャンペーンへの依存は、使い方を誤れば本来の不動産価値を毀損する恐れがあります。不動産プレーヤーに本当の意味で必要なことは、空室の恐怖に負けてキャンペーンに手を出す弱さではなく、物件の真の価値を見定めてそれにふさわしい顧客を選び抜くという、確固たる戦略とそれを信じてやり抜く執念ではないでしょうか。


本連載「マーケティング視点の不動産投資講座」
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