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【2004.12.17】

レジャーホテルのルーツ

 今回は、レジャーホテルという業態の歴史を辿ってみましょう。実はレジャーホテルのルーツは古く、江戸時代後期にまで遡ります。「出会い茶屋」や「船宿」「お手引き茶屋」という男女の逢瀬のための業態がすでに江戸時代後期には出現していたのです。出合い茶屋というのは、テレビの時代劇などで、呉服問屋の若旦那が、かなわぬ恋の相手と密会するシーンなどによく出てくる施設です。神社・仏閣など人の集まる場所にあり、表は料理屋、その奥に個室があるという形態です。



そして明治時代になると、「待合」と呼ばれる施設となります。これも、料理屋+個室という形態。そして、第二次大戦後には、「連込み旅館」あるいは「逆さくらげ」と呼ばれる施設が登場します。

 その後、昭和30年代の後半になると、モータリゼーションの進展に呼応し、郊外立地で車庫付きの宿泊・休憩に利用できる施設として「モーテル」が登場。昭和38年の「モテル北陸」が第1号といわれています。このモーテルという業態は、昭和40年代に日本全国に普及します。

その一方、昭和40年代後半には、その都市立地・ビル型版といえる施設が開発され、「ラブホテル」と呼ばれるようになります。ちなみに昭和48年の「週刊大衆」「週刊女性」にラブホテルというタイトルが初めて登場し、その後、定着。このラブホテルという呼び名と形態の普及には、昭和48年にオープンした「目黒エンペラー」の影響が大きかったといわれています。また「ブティックホテル」とか「ファッションホテル」といった呼び方もされますが、これらの呼称は、昭和50年代に関西からはじまったものです。

その後、ラブホテルは急速に全国に普及します。昭和40年代というのは、TV番組「11PM」が昭和40年にスタートし「平凡パンチ」が昭和39年に創刊されるなど、TVや雑誌等が「性の解放」を謳いはじめた時期で、日本人の性に対する意識が、それまでの"秘め事"という感覚から、西欧的な開放的な意識に変わりはじめた時期であり、そういった人々の意識の変化が普及の背景にあります。

 そして昭和50年代、ラブホテルは、鏡張りの客室や透明なバスタブ、回転ベッド等々、性の空間としての過剰装飾化が進みます。しかし、昭和60年に、いわゆる「新風営法」が施行され、ラブホテルの内容がまた大きく変化します。この法律改正で、新たに鏡張りの客室などがつくれなくなったわけですが、そういった法的な要素よりも、利用者が単なる性のための空間ではなくカップルが2人だけで楽しい時間を過ごせる空間を求めるようになったという、いわば利用者ニーズの変化が、施設内容の変化を促したといっていいでしょう。そして、快適性やアミューズメント性を満たす多彩な機能を満載する現在のレジャーホテルが形づくられていったわけです。なお、レジャーホテルという呼び名は、この業態のこのような利用や進化の多様性を鑑み弊社が名付けたものです(ちなみに商標登録もしてます)。

 このように見ていくと、レジャーホテルというのは、これまで、それぞれの時代背景を反映し、名称や内容を変えながら存続してきた業態であることがわかると思います。それだけに、将来においても根強く確実なニーズのある業態であり続けることは間違いないでしょう。

(多田義則/季刊レジャーホテル

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